ある日の事。スポーツプログラムに参加したわたしは、そこで初めて一緒になったメンバーさんに気付いた。男性の方で、何処か落ち着きのない様子に、わたしは自分が初めてプログラムに参加した日のことを思い出した。あの時は、柏木さんと瀧くんが気を遣ってくれて落ち着きを取り戻せたのだ。もしかしたら、この人も同じように緊張でいっぱいいっぱいになっているのかもしれないと思った。
「あの、良かったらわたしが先に共有しましょうか?」
そう声をかけてみると、男性は驚いたような顔をしてから慌てて頷いた。
「良ければお願いしたいです」
「分かりました、わたしからいきますね」
男性が不安にならないように微笑みかけてから、わたしは自分の振り返りシートを皆に共有した。こんな風に他のメンバーさんの様子を見て動けるようになってきたという事は、わたしにも少し余裕が出てきたのだろうか。ちょっとだけ嬉しくなったわたしは、これからも何かに 気づいた時は声を掛けてみようと思った。自分が優しくしてもらったように、これから入って くる人達にも優しくできればいい。こういうところに、わたしはビューズの暖かさを感じる。
慣れてきた、とは言っても初めての事はまだまだ多い。今日は初めて農業プログラムに出た。ビューズの借りている畑で野菜を育てて収穫する、というプログラムなのだが農業は初体験。初めて会う農家さんへの挨拶も緊張したし、何をしたらいいのかも分からなかった。とりあえ ず、収穫したさつまいもを綺麗にする作業に集中していたけれど、もっと他に出来る事があったかもしれないと思ったりもした。わたしは自分から動くという事がどうにも苦手な節がある。今度参加する時はそこに注意してみようと、意識する事ができたのは良かった。翌日のプログ ラムに参加した時、全身が酷い筋肉痛に襲われたのも今となってはいい思い出かもしれない。
「全身筋肉痛で動けませんでした…」
「それは頑張った証拠ですね!次はストレッチも取り入れましょう」
「はい……次は気をつけます」
日報にその事を書いたら、きちんと身体が動かせていた証だと返事があったけれど、できれば全身はもうなりたくないなと思った。
そんな日々の中で、ちょっとした事件が起きた。わたしにとって、それはかなり気持ちの沈むニュースだったのだ。ずっと楽しみにしてきた事が突然なくなってしまったようなものだった。それまで色々と堪えていた感情が溢れて止まらなくなってしまい、好きな事さえもやる気が起きない状態になった。涙が止まらなかったり、鳩尾が痛くなったりもして、すごく落ち込んだ。
けれど、ビューズに来た事でその落ち込んでいたニュースから離れる事ができた。今までの自分なら、そのニュースに関するSNSの投稿を見続けて落ち込みを加速させていただろう。でも、ビューズに来る事でその出来事から意識を逸らす事ができた。メンバーさんや担当の支援員さんと、その嫌なことについて話せた事も大きかった。
「好きなことに傷つくと辛いよね。でも、それを話せる場所がここにあるの、ちゃんと覚えててね」
「……はい。聞いてくれて、ありがとうございます」
自分の気持ちを共有してもらえた事で、こう思ってもいいんだと安心できたのだ。他にも、メンバーさんからコーピングになりそうな事を教わったりして試してみた。
コーピングとは、ストレスや不安を感じた時に、それを和らげたり乗り越えるための行動や考え方のことだ。例えば、推しの動画を見たり、漫画を読んだり、好きな音楽を聴いたりするなどといった自分の好きな事でいい。わたしは猫が好きなので猫の動画を見たり、読書をしたりして過ごしてみた。すると、確かに気持ちが落ち着いていく感覚があった。
こうして落ち込んだ事から立ち直ったわたしは、その後もビューズに通いながら様々なプログラムに参加した。時には緊張が酷くなる事もあったが、場数を踏めば踏むほどにその緊張感も薄れていく。ビューズに通い始めてそろそろ半年になるな、という頃には緊張感も随分と弱いものになっていた。
丁度その頃の面談で、支援員さんからビューズ内のボランティアに参加してみないかというお話があった。
「少し業務的な事を取り入れてみるのはどうかなと思っていて、お花のボランティアはどうですか?」
「お花のボランティア……?」
「ビューズ内に飾ってあるお花の世話をするボランティアです」
確かに、ビューズ内にはいくつか花瓶に生けたお花が飾ってあった。それらの世話をするボランティアなら、お花にも興味があるわたしは楽しそうだなと思い、頷いた。
「やりたいです!」
初めは具体的なやり方を別のスタッフさんに教えてもらいながらやった。手順が複雑で覚えることは多そうだが、二週間おきに届くお花を見る事が出来るのは楽しみでもある。こうして、お花の世話係としての活動が始まった。
お花のボランティアは毎週月曜日と水曜日と金曜日に、花瓶を洗って水と栄養剤を入れ、お花を綺麗に生けるという内容だ。最初の頃は、綺麗に生けるというのがどういう事なのか今ひとつ分からず難しさも感じていた。
けれど、ある日のプログラム終了後にお花のボランティアをしていたわたしを見かけた瀧くんがこう言ってくれた。
「久坂部さん、いつも綺麗に生けてくれてありがとうございます」
「えっ、いやいや!わたし、まだ上手にできてなくて……」
「そんな事ないと思いますよ。俺から見ても、皆さんから見ても」
「だったら嬉しいな……ありがとうございます」
自分ではまだまだだと思っていた事でも、こうしてきちんと見てくれている人が居るんだと知ってわたしは嬉しくなった。それを言葉にして伝えてくれた瀧くんの暖かさを知る事ができたのも、お花のボランティアのおかげだと思った。
このように少しずつやれる事を増やしながら、ビューズに通っていく事で自分の考え方にも変化が現れ始めた。いつものようにカウンセリングを受けていた時の事だ。カウンセラーさんから、思いがけない一言を貰ったのは。
「久坂部さん、前向きな意見がよく出てくるようになりましたね」
自分では気づいていなかったので驚いたが、わたしはいつの間にか前向きになる事ができていたようだった。それは勿論、病院の先生やカウンセラーさんのおかげでもあるけれど、ビューズに通う事で得られた自信が考え方に繋がってきたんじゃないかなと思った。
ビューズに通う中で、支援員さんから「セルフモニタリング」について教えてもらったのは、わたしが少しずつ前向きになってきた頃だった。
「セルフモニタリングって、自分の状態を振り返って整理することなんです。久坂部さんも、ちょっと意識してやってみませんか?」
セルフモニタリング――つまり、自分の感情や体調の変化を記録して、どんな時に不調になりやすいのか、どうすれば調子を保てるのかを知る方法だという
「日記みたいな感じですか?」
「そうですね。簡単なメモでもいいですし、気持ちや行動の流れを振り返るだけでも意味がありますよ」
たしかに、わたしは今までなんとなく過ごしてきて、調子がいい日と悪い日の違いを深く考えたことがなかったかもしれない。
セルフモニタリングを始めてみると、意外な発見があった。
たとえば、朝ビューズに来るまでの気持ち。
前日にしっかり寝られた日は、比較的スムーズに準備ができる
天気が悪い日は、なんとなく気持ちが重くなる
支援員さんと話した日は、安心して帰れることが多い
こうして書き出してみると、「あ、こういう時にわたしは気分が落ち込みやすいんだ」と分かるようになった。
「気分が落ち込んだ時は、好きなことをするといいですよ」とカウンセラーさんが言っていたのを思い出し、わたしは猫の動画を見たり、お花の手入れをして気持ちを切り替えるようにした。
そうすると、少しずつ「気分が落ちても、戻せる方法がある」と思えるようになった。
続けていくうちに、セルフモニタリングはただの記録ではなく、自分を理解するための大切な手段になっていった。
「最近、前ほど緊張しなくなったな」
「今日はあまり人と話せなかったけど、それも大丈夫」
「支援員さんと話したら気持ちが楽になった」
そんな風に、日々の変化を知ることで「できていること」にも気づけるようになった。
支援員さんが「久坂部さん、最近すごく安定してますね」と言ってくれた時、わたしは初めて「セルフモニタリングが自分を支えてくれているんだ」と実感した。
もちろん、調子が悪い日もあるし、落ち込むことがゼロになったわけじゃない。でも、今のわたしは「どうしたら戻せるか」を知っている。
それは、わたしが自分の気持ちと向き合って、少しずつ積み重ねてきた結果だ。
ビューズに通い始めたばかりの頃は、毎日が不安だった。何をすればいいのか分からないし、 自分がここにいていいのかも分からなかった。周りの人たちはみんな落ち着いて作業しているのに、わたしだけが取り残されているような気がしていた。
でも、少しずつ分かってきたことがある。誰もわたしを否定しないということ。できないことがあっても大丈夫だということ。そして、わたし自身が「今の自分」を知ることが、とても大切だということ。
セルフモニタリングを意識するようになってからは、自分の気持ちに気づくことが増えた。「あ、今ちょっと疲れているな」と思えたら、無理せず休む。「今日は気分がいいから、いつもより少し頑張ってみよう」と思えたら、それを大事にする。そうやって、自分のリズムを見つけていくことで、少しずつ「ここにいていいんだ」と思えるようになった。
もちろん、今でも不安になることはある。急に気持ちが沈んでしまう日もあるし、うまくいかないことがあると、昔のように自分を責めたくなることもある。でも、そんなときは「前の自分ならどうしていただろう?」と考えるようにしている。昔のわたしは、きっと自分を責めることしかできなかった。でも今は、落ち込んでも「大丈夫、こういう日もある」と思えるようになった。それだけでも、すごい変化だと思う。
ビューズに通うようになって、自分の変化を実感することが増えた。そして、その変化を支えてくれたのは、ここで出会った人たちだ。支援員さんが優しく声をかけてくれたり、メンバーさんと何気ない会話をしたりすることで、少しずつ「わたしは一人じゃないんだ」と思えるようになった。
特に印象に残っているのは、ある日、支援員さんがかけてくれた言葉だった。わたしが作業で ミスをして落ち込んでいたとき、「失敗しても大丈夫ですよ。ここは、うまくいかないことも 経験しながら、成長していく場所ですから」と優しく言ってくれた。その言葉を聞いたとき、胸がじんわりと温かくなった。今まで、わたしにとって「失敗」は怖いものでしかなかった。でも、ここでは「失敗も経験のうち」と思ってもいいんだと知って、少しだけ気持ちが楽になった。
また、メンバーさんたちとの会話も、わたしにとって大きな支えになった。最初は「どう話し かけたらいいんだろう」と緊張していたけれど、何度か話していくうちに、少しずつ打ち解けることができた。あるとき、「最近、少しずつ慣れてきた気がします」とぽつりとこぼしたら、「それ、すごいことだよ!」と明るく返してくれた人がいた。その言葉に驚いたと同時に、「わたし、ちゃんと前に進めているんだ」と実感できた。
これからも、きっと悩んだり迷ったりすることはあると思う。でも、セルフモニタリングを続けながら、自分のペースで歩んでいきたい。焦らなくていい、立ち止まってもいい。大切なのは、自分を知り、自分を大事にしながら進んでいくこと。
「焦らず、でも確実に」―そう心に決めて、わたしはこれからも歩んでいく。
About Support